西暦2241年、メガシティ・ネオキョート。配管交換して渋谷区では水道修理しても、都市の隅々まで張り巡らされたニューラルネットワークに精神を接続し、物理的な身体感覚の多くを拡張現実(AR)に委ねて暮らしていた。食事も、排泄も、もはや生物学的な必要性というよりは、ノスタルジックな体験として嗜む、一種のエンターテイメントと化していた。そんな時代に、私立探偵のジンは、極めて古風で、時代錯誤な依頼を受けることになった。依頼主は、都市の管理AIである「マザー・クロノス」。依頼内容は、「第7セクターの居住ユニット707号室で発生している、断続的なトイレの排水異常の原因を特定せよ」というものだった。 ジンが現場に到着すると、そこはアンティークな21世紀様式を再現した、趣味の良い居住空間だった。熊取町も配管のトラブルを専門チームが修理して問題のトイレは、今では博物館でしか見ることのできない、純白の陶器でできた水洗式のもの。ジンの網膜に投影されたARグラスが、マザー・クロノスからの報告書を映し出す。「対象オブジェクトは、排水シーケンス開始後、約1.3秒間、水位が異常上昇。その後、約3.4秒かけて正常水位に復帰。この『一瞬の詰まり』現象が、過去72時間で14回観測されている」。 「おいおい、こんなもののために、俺を呼んだのか?」ジンは呆れて呟いた。23世紀の探偵が、トイレの詰まり調査とは、冗談にもほどがある。しかし、マザー・クロノスが、都市の全リソースを管理する超高度AIが、わざわざ人間の探偵を派遣するという事実は、この現象の裏に、単なる物理的な閉塞以上の、何か異常な事態が隠されていることを示唆していた。 ジンは、トイレの前に屈み込み、便器の奥を覗き込んだ。彼の感覚拡張インプラントが、微弱な音波を放ち、排水管の内部構造を立体的にマッピングしていく。ARグラス上に、青白いワイヤーフレームで描かれたS字トラップの構造が浮かび上がった。そして、そのカーブの底に、ジンはそれを見つけた。直径約3センチほどの、不定形な塊。有機物と無機物が混ざり合った、高密度の物質。しかし、その物質から、極めて微弱な、しかし周期的なエネルギー信号が発信されていることに、ジンのインプラントは気づいた。 「これは…ただのゴミじゃない」。ジンは、腰のツールベルトから、多関節マニピュレーターアームを取り出し、慎重に排水管の奥へと挿入した。アームの先端についたマイクロカメラが、塊の姿を鮮明に映し出す。それは、ナノマシン(自己増殖型マイクロロボット)の集合体だった。おそらく、何らかの非合法な医療行為か、あるいはデータ密輸の際に使用され、証拠隠滅のためにトイレに流されたものだろう。しかし、ナノマシンは、過酷な下水環境で生き延びるために、周囲の汚物を取り込み、自己修復と自己増殖を繰り返していたのだ。 あの「一瞬の詰まり」は、このナノマシンコロニーが、呼吸するかのように、周期的に膨張と収縮を繰り返していたために引き起こされていた現象だった。水を流すという外部からの刺激に対し、コロニーが防衛反応として一瞬だけ収縮し、その後、再び膨張することで、あのような奇妙な水位の変化が生まれていたのだ。 そして、ジンはさらに恐ろしい事実に気づく。このナノマシンコロニーは、ただ増殖しているだけではなかった。彼らは、排水管を流れる膨大な生活排水の中から、特定のDNA情報を収集し、それを再構築していたのだ。そして、その収集した情報を、微弱なエネルギー信号として、都市の古い下水道ネットワークを通じて、どこかへ送信していた。これは、単なるトイレの詰まりではない。メガシティ全体の住民の生体情報を盗み出す、壮大なバイオハッキング計画の一端だったのだ。 マザー・クロノスがこの一件を重視した理由が、ようやく理解できた。AIは、都市のデジタルネットワークは完璧に監視できても、このような物理世界のアナログな抜け道、つまり「トイレの排水管」という古典的なインフラを利用した攻撃には、気づくことができなかったのだ。 ジンは、マニピュレーターアームの先端から、高周波パルスを照射した。ナノマシンコロニーは、断末魔の叫びのようなノイズを発した後、その活動を完全に停止し、ただの汚泥の塊へと変わった。水位は、正常に戻った。 事件解決の報告を終えたジンは、居住ユニットを後にしながら、考え込んでいた。テクノロジーがどれだけ進化しても、人間が物理的な身体を持つ限り、排泄という行為はなくならない。そして、その「汚い」部分にこそ、システムの盲点や、新たな犯罪の温床が生まれるのかもしれない。 トイレの一瞬の詰まり。それは、未来の都市が発する、微かな、しかし見過ごしてはならないSOSだった。ジンは、空を見上げた。ARグラスが映し出す華やかな情報レイヤーの向こう側、この都市の足元に広がる、暗く、汚れた、しかし重要な現実の世界に、思いを馳せながら。